涼しさの中に感じる寂しさが好きです。
こんばんは、堂谷木工です。
涼しい初秋の空気に、若干身体が置いてきぼりのようです。気まぐれな天候に振り回される人間。
最近の工房では、小抽斗を終えてしばらく図面引きをずーっとやっていました。今日から依頼を受けているお仕事を開始しましたが、イマイチ調子が上がりません。身体がダルイです。
自分の製作品は、もう何度図面を引き直したことやら。ある程度パターン化した家具を考えていて、ローボードやロングデスクなど、4点ほど図面を書き溜めましたが、4点のコンセプトが全くボヤけてまとまらず、イジリにイジっていましたが、『きちんとした構造とサッパリした見た目』を意識しつつ、スタイリッシュなものを(どっちみちそんなものを生み出すセンスはありませんが)狙いすぎると、受け入れられにくいと思い、その辺のさじ加減で苦労しました。
結局、部材の太さとか棚位置とかデザイン云々をいじくりまわしても、何も魅力のあるものは生まれないんだなぁと痛感したこの数日。明確な『こういうモノを作るんだ!』という、ゆるぎない強い想いがあれば、部材が5ミリ太かろうが面が2分だろうが4分だろうが大した問題ではないような気がします。もちろん、見た目の印象は結構変わってくるのですが、そういう問題ではないような気がします、木製品の魅力って。
人間本来のその人の持つ魅力が人を引き付けるように、カネにモノ言わせて人をひきつけたり、着飾っても無意味なのと同じだと思うのです。美人、カワイイ、カッコイイ、ブサイク、ダサい。僕も20代半ばまでぐらいは、そういう見た目にすごくこだわっていた気がします。もちろん見た目が良いに越したことはありませんが、中身の無い、何も感じられない美しいもの、カッコイイものに対する虚しさや残念さを感じるようになってきました。とか言いつつも、自分自身も未だに美しさの奴隷から抜けられないですが、徐々に『そうじゃない、内面から湧き出してくるものを形にすることの重要さ』を意識するように、少しだけなってきました。しかし、これはとてつもなく難しく苦しい作業だと思います。自分に絶えず問い続けることになります。究極的には、『なぜ作るのか?』という、カオスな問いに至ります。
まだまだそんなレベルではありません、入り口にも達しないですが、最近は作りながら『自分はこれを作ることで何をしたいのか?』を問いながら作ったり図面引いたりできるようになってきました。面の太さをどれぐらいにするべきか、部材をどれぐらいの太さにするべきか?見た目だけで考えれば、ベターな答えは出てくると思います。『人の眼は錯覚を起こすので、ここの部材は太めの方が全体のバランスが良く見える』とか、そういう知恵は身に付けることはできると思いますが、それでは自分が何を作りたいのか?という問いに応えていないような気がします。
その部材の太さとか面はどうすべきかという問いに対する本当の答えは、自分自身にしか導き出すことはできません。そこから逃げないこと、これがとてもしんどい事なんです。『クッソ、どーでもいいやー』と言いたくなりますが、じーっと見つめ、じーっと考える。完成途中のソレと対峙しながら、何かを感じ取る。そうすると、自分の中の選択肢が幾つか出てくる。完成後にそれが運よくカッコよくても美しくても、やっぱりダサくても自分の中での達成感は非常にあるわけです。『あぁ、こういうことがやりたかったんだ』と。そうやって自分の中から湧いて出てきた、自分というフィルターからろ過されて出てきたものを、煮詰めて結晶化したものが製作品になるんだと思います。それが人に評価されるかされないか、売れるか売れないかは結果論であって、それが答えではありませんから。
ただ、売れないとどんどん怖くなるわけです。生活があからさまに困窮しますから、「何でもうちょっと売れるようにしなかったのか?」とか考えたりもします。魅力ある製作品を作るには、自分自身にとことん問うことから逃げないことだと思っていますが、完成したそれが売れるとは限りません。ただ、売れなかったとしても後悔はしないわけです。独立してから数点、作って後悔した制作品があります。いずれも共通して『売れたら量産できるような範囲で』という邪心が入り、全く何の魅力も無い製作品になってしまっているものたちです。そこに投じられた材料がかわいそうです。折角形にしてやるんだから、徹底的に対峙して問うことをしないと、結果満足しないということになります。自分もお客さんも。
最終的に、そのモノと自分が対話を重ねた結果生み出されたものは、お客さんに伝わる気がします。そうであろうがなかろうが、ものづくりは自分との対話というものが本質であり、それが製作品の個性になるのだと思います。評価や売り上げを意識してものづくりをすべきではない。そういう崇高な決意をしつつも、迷ったりうろたえたりしながら生きています。自分自身の弱さは実に愛おしいですからね。どうしても過保護になりそうになりますが、そこにムチ打って叩き起こせるかどうか。
木工屋(僕)は芸術家ではないですから、形作るということに現実的なアプローチで挑みがちです。特に僕はその傾向が強いです。頭でっかちですからね、遊びの要素が全く無いのです。実用本位のものづくりであり、生きる糧としての木工を自分の生業に据えていますので、売れなければ困るわけです。使いやすさや実用性、耐久性だけを考えれば、これまた答えが決まってきます。そこに自分自身の美意識をどう盛り込むのか、そこを自問自答してものづくりをしているつもりです。
行動して迷いながら見えてくること、わかったこと。それは希望になります。とことん落ち込むことも多々ありますが、実際、涙がにじむほど嬉しくなることもごく稀にあります。こんな激しい感情の起伏を感じられる仕事ができるなんて、なんと幸福なのだろうかと。
僕はこうして文章化することで、それを目で追いながら、脳に再度格納することで、形式的に自分は幸せであるということを摺り込んでいるのでしょう。先人はもっと行動し、もっと得て、もっと短時間で事を成し、僕のように感傷に浸る間もなく攻め続けたんだと思います。その情熱が年齢と反比例して減少していく怖さを気にしつつ、どこまで木工に情熱を燃やし続けられるだろう?もっと我武者羅に燃えなければならないはずだ、と焦ったりもします。
そんな涼しい夏の夜です。
それでは、また。